「本質的」ということはすごく奥が深く、追及が難しいものだと思います。
よく「本質的に考える」というフレーズを耳にしますが、そもそもその「本質」とは何なんだろう?と悩んでしまいます。
ただ、ヒントは日常にたくさんあるな。。。とも思います。
人というのは、置かれている状況や、気持ちの余裕次第で本質から外れることが多いんだなぁ。ということを多々感じます。
例えば、「見えてないものは気にならないのに、見えているものはすごく気になる」という点です。例えば、知り合いでもなんでもない人が大した仕事もしていないのに給料が高い場合、大して気にならないのに、自分の社内で身近な人が同じ状況にあるととても気になってしまうなんてことはないでしょうか。
例えば自分の上司や先輩で、大した仕事もしていないのに、必死に働いている自分よりも給料が高いと気になりませんか?ほかにも、同期や同僚が自分よりも先に昇格や昇給をしたら「なんであいつが」と気になったり、それがストレスになったりします。
ただ、世の中には自社で気になって仕方がない、仕事をしない上司や、先に出世していく同期、同僚の程度よりももっと程度のひどい人はたくさんいると思います。ですが、知らない人だと、誰がどんな役職になろうが、どんな仕事ぶりで自分より多い給料をもらっていようが気にもなりません。
知っている人だからこそ気になるってことありますよね。こういう場合、その悩みやストレスは本質的ではないと感じます。
知らない人なら気にならないのに、知っている人だから気になる。こうしたことを考えるとつくずく、悩みやストレスというのは自分で作っている生産物なんだなぁ。。。と感じます。こうしたことを気にしているといつの間にか、自分の意識する相手(競争相手)が自社の人ばかりになり、なんて小さなフィールドで生産性の悪い感情を働かせているのだろうと、自分に対してむなしくなることがあります。
知っている人だと気になって、知らない人が同じ状況下にあっても気にならないのであれば、本質的にその悩みやストレスは不毛だと思います。こうしたことをあえて意識的に無視する(戦略的シカト)ことができる能力が必要だと思います。
ちょっと話は変わりますが、例えば、自分のことに対して他人から批判や反論や影口をたたかれることがあったとします。それを正面から受け止めるとメンタルがやられて、自分はだめなんじゃないか。。。と落ち込んでいたら生き生きと仕事ができないし、悩んで憂鬱になってしまうと思います。
けどそんな時も気になるのは、批判や評論は他人のものであって、自分の精神まで侵害される筋合いはない。と思い込むことが大事な時もあります。
「行いは自分のもの 批判は他人のもの 俺の知ったことじゃない」
という勝海舟の言葉もあります。
どんなに他人に批判されようが、評論されようが、それによって自分の能力が低下するわけではないのです。その批判や評論にメンタルが打ち負かされたときに持っている能力も発揮できなくなってしまって、いかにも自分の能力が低下したような錯覚に飲み込まれることがあります。しかし、他人に何と言われようと、批判や評論によって自分の能力が低下することはありません。
どんな状況においても自分の気分をどう持つかで変わります。悩みは自分が生産する人工物です。同じことがあっても死にたいほど気になる人もいれば、あっけらかんと気にせずに笑い飛ばして常に前向きな人もいます。
表面的なことや、自分の置かれている環境下の状況に捉われすぎて、本質を見失い、本質的ではないことに一生懸命悩んだりストレスを抱えてしまうことが多くあります。
気になることが多い世の中ので、気にしない能力を高めることも必要なのだなぁ。。。と思います。